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| 「兵士たちの戦争、ベニヤボートの人間兵器震洋特別攻撃隊」の反響 田村光三氏(明治大学名誉教授)のお便りから 「震洋特別攻撃隊」についてのテレビ放映を心待ちにして拝見しました。 丁度私より2~3歳上の、多数の青年が、「バンザイ」と叫んでその尊い命を太平洋の海に沈めたことの意味を、噛み締めて思い返しております。 出演者(生存者)のひとりが、あれはまったくの「外道」だったと述懐しておられましたが、将に戦争そのものが人間の道に外れたことと存じます。 舟越純一氏が書き遺された 「我等の肩に祖国の現在と将来はかかれり 永遠なるものの中に我生きん」 という言葉は、今日また「新しい意味」で、私たちに対するご叱正と励ましの言葉と存じます。 このような、尊い犠牲によって築かれた戦後日本とそのマニフェストである平和憲法の精神を守り、生かし、世界に広めていくことが、遺された我々の責務であることを、あらためて確認したことでございます。 |
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| 昭和19年に製造が始った特攻兵器「震洋」は、ベニヤ板の一人乗りボートで舳先には250㎏の爆薬を内蔵し、還らざる水際での体当たり迎撃戦法をとりました。震洋隊はフィリピンと沖縄で出撃しましたが、本土決戦に備えて秘匿され、戦機なく敗戦となったのです。同じ特攻兵器でも洋上での対敵艦体当たり特攻兵器、人間魚雷「回天」とは事情を異にします。 舟越純一さんは昭和17年9月自由学園男子部卒業、昭和18年12月、佐世保第一海兵団へ召集された後、戸塚海軍病院での教育期間を経て、海軍二等衛生兵曹となって昭和19年9月佐世保へ移動し、第15震洋隊に配属(第14震洋隊とともに)、5396トンの貨物船玉洋丸にて三池港を出港フィリピンへ向かう途中、中国舟山列島の東シナ海において潜水艦の雷撃を受け戦死されました。 秋吉美也子さんの追憶 母の在世中に、純一の所属部隊を報告することはできませんでした。しかし、母は知っていました。 昭和19年11月4日、神風(しんぷう)特攻隊出撃の直後でした。突然帰ってきた純一は母に「弟の泉以外には秘密に」と念を押してから、海軍にも同様の部隊があると言い、「神じゃなくて、地震の震」と中空に字を書いて教えました。特攻隊の名を漏らすことがどれほどの大罪であるか、理解しかねた母はメモをと…。「書いてはいけません」と純一に肩を押さえられて顔色を変えました。 純一の卒業10日前に、泉は戸塚海軍病院を訪ね、30分会うことができました。純一は「比島奪回作戦に参加できるのを光栄に思う、自分のこの選択が学園のためになることを願っている」と泉に告げ、更に、 9月4日 我等の肩に祖国の現在と将来はかかれり 永遠なるものの中に我生きん 泉殿 舟越純一 と、最後の言葉を一片の紙に残しました。 泉 … 純一さんの弟、男子部6回生、故人 三宅 進さん(自由学園男子部6回生)の伝え聞く話 その頃、出身部隊の佐世保に戻る直前の小半日、特別の外出許可が出る。舟越さんは、真っ先に羽仁吉一先生(婦人之友社・自由学園の創設者)へ電話にて最後のご挨拶のことばを。続いて「学園までは遠くて時間がありません。目白の婦人之友社を訪ねたいと思います…」と。吉一先生はせめてもの精一杯のもてなしをと、婦人之友社に電話。目白では羽仁両先生に代わって羽仁賢良さんと千葉貞子さんがお会いする。「たくさん召し上がって」と、二人は目が潤む中、静かにじっと見つめていたと言う。別離のことばは「どうか、どうか、お大事になさって」。 舟越さんが弟の泉さんと会った時の、生死を超える最後のことば「永遠なるものの中に我生きん」を知って胸がつまり、涙が溢れるのを禁じ得ません。 |
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| 昭和19年8月6日。戸塚駅西口井野写真館で撮影。 舟越純一さん(兵長の制服姿)と弟泉さん |
敗戦後集積した震洋艇(昭和20年8月 川棚訓練所) |