石徹白洋品店の しぜん・しごと・暮らしは地つづき

 

 岐阜県にある白山国立公園の南側に位置し、縄文の時代から続くという集落、石徹白。
 この地の自然と土地が培ってきた人々の暮らしを受け継ぎ、現在の私たちに「服づくり」という形で、古くて新しい文化を伝える「石徹白洋品店」の活動や日々の営みを、店主の平野馨生里さんがつづります。

 


 

[新連載・第1回]

石徹白洋品店の

しぜん・しごと・暮らしは地つづき

 

平野馨生里(石徹白洋品店・店主)

 

 

まずは自己紹介から

 

 初めまして。平野馨生里と申します。

 岐阜県の山奥の小さな集落・石徹白(いとしろ)に住み、「石徹白洋品店」という屋号で服屋をやっています。このweb連載では、石徹白の自然の中での私の暮らしや仕事について、お伝えできたらと思っています。どうぞおつき合いください。

 

 私は2011年、今から12年前に、生まれ故郷の岐阜市から車で2時間ほど北西に走って辿り着く「石徹白(いとしろ)」という小さな山間集落に、夫と猫2匹と移住をしました。

 そしてその後、4人の子どもを授かり、今は家族6人と猫1匹、ヤギ1頭と暮らしています。

 

石徹白集落の全景。奥には白山連峰が連なる。

 

 

石徹白洋品店の始まり

 

 石徹白洋品店は、2012年に創業。3人目の子どもが生まれるまではぼちぼちひとりでやっていましたが、20174月から株式会社化して、仲間と共に日々、草木染めや藍染などの染め作業、服の企画や販売などを行っています。この土地に伝わる農作業着「たつけ」「はかま」「越前シャツ」など、全て直線裁断で作られている服を、ここで暮らしてきたおばあちゃんたちに教えていただき、作り始めました。(詳しくは『婦人之友』2023年11月号をお読み下さいね)

 

「もう、50年も作ってないんやけどな~」と言いながら、当時70代の小枝子さんは、私に「ここは◯寸◯分じゃ、ここは、こうして縫うんじゃ」とスラスラと教えてくださいました。

 

”たつけ”について教えてくださった故・石徹白小枝子さん。昭和8年生。

 

 

 その作りの素晴らしいこと! 服を製作する際、布を断つたびに出てくる大量のハギレに辟易していた私は、それらが全く出ないたつけは、日本の和裁の集大成とも言えるものだと感銘を受けました。

 私は、「こんなに素晴らしい服が日本にあったんだ! それを伝えていかなければ!」と勝手に使命感を持ち、おばあちゃんたちから学んだ服をベースに、現代の人でも日常的に着られる服をデザインして作っています。

 

生い立ち。私の祖母のこと

 

 少し私の生い立ちについて、お話しさせてください。私は幼少の頃、同居の祖母(昭和4年生)に大きく影響を受けて育ちました。祖母は若い頃、体が弱かったので、子どもは息子(つまり、私の父)ひとりだけでした。どうしても女の子が欲しかったけど、ふたり目は諦めなければならず、ずっと願っていた初めての女の子は、孫娘の私だったのです。

 

私の家族。祖母に抱かれている赤子が私です。

 

 

 私のことを心から可愛がってくれた祖母は、私を日本文化や伝統を大切にした暮らしの中で育ててくれました。

 小学生になると、お茶の先生をしていた祖母に茶道を学びました。季節ごとにお花やお菓子、器まで変わっていく日本人の繊細な心づかいに驚き、子どもながらに美しさを感じました。また、食べものを残すと「祟(たた)りにあう」と脅かされ、鉛筆や消しゴムなどが転がっていると「人が一生のうちに使える物は限られている。物を大事にしないと勉強させてもらえなくなる」と叱られました。

 

 思春期に差し掛かると、口うるさい祖母を煙たく思い始め、次第に離れていきましたが、今の私のベースには、祖母との日々で心身に染み込んだことが流れているのは確かです。

 桜が咲くと花見に出かけ、満月の夜にはススキを飾りお団子を頬張る。大晦日のおせち料理作りは一大行事。日々の忙しさに埋もれがちな季節行事ですが、親になってみると当たり前にしていきたいと思うように。そういったことをきちんと繰り返していくことの大切さを、かつての祖母との暮らしに改めて学んでいる昨今です。

 

聞き書きから”心”を知る

 

 季節の伝統行事自体、もちろん私は好きなのですが、こうしたことを当たり前に繰り返してきたであろう先人の暮らしぶりや、そのに私は惹かれます。

 だからなのか、私は学生時代に文化人類学のゼミに入り、カンボジアの織物村をフィールドとして「聞き書き」をおこなってきました。そこでとある織手のおばあちゃんに聞いたライフヒストリーが、私の卒業制作となりました。

 

 その延長線上に、今の私の全てがあるように感じています。

 石徹白のおばあちゃんたちから「たつけ」について学ぶことは、作り方や構造だけではありません。たつけを穿いてハッピを着て働いたこと、結の作業(農家が協力しておこなう田植えや稲刈りなど)をたつけを穿いて若い衆でしたこと、3月になると囲炉裏を囲んでたつけを縫うことが、春の田植えを迎える前の楽しみだったこと……私はたつけにまつわるおばあちゃんのエピソードを聞くことが、何よりも楽しみでした。

 

たつけとハッピで農作業。休憩中の若い娘たち。 撮影:鴛谷吉明氏

 

 

 一本のたつけの背景には、たくさんの感情が秘められていることに、私は、ものとはただの存在ではなく、そこに心が在るということを知りました。

 だから、私はただたつけを作って売りたいのではありません。知りたい方には作り方をお伝えする、そして石徹白のこと、教えてくださったおばあちゃんのこと、背景の物語も全てひっくるめてお伝えすることに、喜びを感じています。

 

自然の中での暮らしと仕事

 

 さて、日々の暮らしのことを紹介させてください。私は石徹白洋品店という小さな会社の代表をやっています。この地域に住みながら働いているメンバーは5名ほど。夏場はインターン生が加わって賑やかになります。皆で日々、服の生産、企画、染めの作業や畑仕事、広報活動や販売など多岐に渡る仕事をおこなっています。

 

草木染め作業中。

 

 

 少人数なので常にやることが山積み。私は子どもが4人いるので、限られた時間の中で仕事をしています。一番上は5年生。一番下は2歳。2歳児の四男に合わせた生活スタイルで、9時から16時の保育園の間が、私が仕事に充てられる貴重な時間です。

 

 仕事場は家から歩いて1分弱。畑と道を挟んだ場所にある建物です。子どもが熱を出すと家で仕事をしたり、家の隣の藍染工房で染めの作業をしながら見ることも。藍の種まきや収穫は、休みの日であれば子どもたちも手伝ってくれます。草木染めに使う草花や栗のイガ、山にある虫こぶも、子どもたちを連れて取りに行き、ついでに山菜やキノコを見つけては食料調達。

 

 目の前の畑では、夫が一生懸命に自給用の畑を作ってくれています。ご飯の準備中に子どもたちに「トマト採ってきて~」とお願いすると、トマトにナスにピーマンまでカゴいっぱいに入れてきてくれます。採れたて野菜のご馳走。その隣は藍やマリーゴールドなど、染めに使う植物の畑が広がっています。そして、その隣には草刈り隊員のヤギのアル君が常駐。

 

藍畑の手入れ。除草や追肥、8月からは刈り取りなど様々な作業があります。

 

 

 石徹白に来てくださるお客様は、「時間の流れがゆっくりでいいわね~」「自然がいっぱいでのんびりしているわね~」と言ってくださいます。ですが、のんびりしているのは広々とした空に浮かぶ大きな雲と、走り回って遊ぶ子どもたちとヤギくらい。私たちは常に自然の変化の中で暮らしているので、季節に遅れないようについていくのに必死の日々なのです。

 

 種をまく、畑を耕す、苗を作る、苗を畑に入れる、藍を仕込み建てる、藍染をする、みのりがあれば収穫をする、畑を片付ける、次の作物を植える……。

 毎日タイヘン!なのが正直なところ。ですが、とても充実していて体も心も気持ち良く、生きているという実感に幸せ感が伴います。

 

ヤギに餌をやる子どもたち。

 

 

 さて、まさにこれから、山に行って栗を拾ってきます。来週は、イガの鉄媒染で上品なグレーを目指す染め作業があるのです。どんな色が現れてくれるのか、今からワクワクしていますし、副産物としていただける栗をどうやって食べようか、ニヤニヤしながら考えているところです。

 

 最後まで読んでくださってありがとうございます。次回は、石徹白にしか存在しないと言われる冬の保存食肉の漬物の私なりのレシピをお伝えできたらと思います。ご飯もお酒もすすむ、家族に大人気な漬物です。どうぞお楽しみに!

 

 


ひらのかおり
岐阜市生まれ。大学卒業後、PR会社に就職。在学中から関わっていた岐阜のまちづくり活動がきっかけで2007年石徹白に出会う。2011年に石徹白に移住、12年5月に石徹白洋品店を開店。
▼石徹白洋品店
https://itoshiro.org/

 

 

<お知らせ>

2023年12月15〜17日 自由学園明日館にて

「石徹白洋品店」展示販売会・トークイベントを開催します

詳しくはこちらまで。