しぜん・しごと・暮らしは地つづき 第7回「ご縁がつながって実現した藍染」

 

 
 岐阜県にある白山国立公園の南側に位置し、縄文の時代から続くという集落、石徹白(いとしろ)。
 この地の自然と土地が培ってきた人々の暮らしを受け継ぎ、現在の私たちに「服づくり」という形で、古くて新しい文化を伝える「石徹白洋品店」の活動や日々の営みを、店主の平野馨生里さんがつづります。
 

 

石徹白洋品店の しぜん・しごと・暮らしは地つづき [第7回]

ご縁がつながって実現した藍染

平野馨生里(石徹白洋品店・店主)

 

 

 今年も5月頭から藍染の作業が始まりました。石徹白では冬期は寒くて染められないので、5月から10月までの期間限定で行っています。

 

夏場は2日に一度染めを行う。

 

 

藍染を始めたい!

 

 私が藍染を始めたいと思ったのは、石徹白のおばあちゃんたちから見せてもらう古い服が全て藍染だったからです。昔の人がずっとやってきたことにはそれが必要な理由があるはず。自分で実践することで、背景を知りたいという気持ちがありました。

 

70年ほど前に作られた藍染の古い麻の服。

 

 以前から、藍染という染め方があることは知っていました。ただ、それはとても手間がかかり、難しいと聞いていました。私はぼんやりと「石徹白洋品店が軌道に乗って、50代くらいで始められるといいな」と思っていました。

 

 

藍畑の師匠との出会い

 

 当時は誰かと出会うたびに、「いつか藍染をしたいと思っています」と話していました(何か始めたいと思ったら、すぐに人に話してしまうせっかちな性格です)。そうするうちに、私が兼ねてからお世話になっていたSさんが市内に住むある人を紹介してくださったのです。

 

 「この方ね、もう50年も前から藍染をされていたのだけれど、今はもう辞められてしまったの。私が馨生里さんに藍染を教えてあげて欲しいって、伝えおいたから」

 

 私は驚き喜びました。こんな近くに、しかも何十年も藍染をやっている人がいるなんて! 時期尚早かと思いましたが、ご縁があるならとすぐに会いに行きました。

 

藍畑の師に会いに仲間とともに。

 

 Tさんは80歳に手が届く年齢で、数年前までは藍染で一家を養ってきた職人とも作家とも言える人物でした。眼光鋭く、でも瞳の奥には優しさが感じられ、すぐに私は藍染をやりたい理由を話していました。

 「僕はね、もう何十人も藍染を若い人たちに教えてきた。でもね、今はもう藍染を辞めてしまったから、藍の味も色も教えてやれないんだ」

味?味ってなんのことだろう?と疑問に思いつつも、私は諦めずに食いつきました。

 

 「藍染は、畑で藍の葉を育てるところからしなくてはならないと聞いています。そこから教えて欲しいんです。どうしても、石徹白にある昔の野良着のような色を出したいんです」

 

 石徹白に移住した経緯やどんな服を作っているかなど、さまざまな話をし、最後にTさんは「わかった。教えよう。まずは畑からだ。そして、それがうまくいったら、僕の甕(かめ)をあげますよ。掘り起こして持っていっていいから」と言ってくださったのです。

 

 出会ったその日に、藍の育て方を教えると約束してくださり、かつ甕を譲っていただけるかもしれないなんて!と私は小躍りして帰りました。

 

 

最大の難関は藍畑の管理

 

 石徹白から車で40分ほどの地域に、Tさんの畑と自宅はあります。そこに通って、藍の育て方を教えてもらいました。土の作り方、種のまき方、肥料について、定植、除草、そして刈り取り、乾燥……。これを経なければ藍の葉が手に入らず、藍染をすることもできない。農家の経験がない私にとって、畑は最大の難関でした。

 

 どうしたらうまく苗を育てられるのだろうか。石徹白は標高が高く気温が低いので、Tさんと同じ要領ではなかなか育苗が進みませんでした。苗が育たなければ畑を始めることさえできない。

 

 自信をなくした私にTさんは「この苗を使いなさい」と自分で育てた苗をくださいました。また梅雨時期に、ネキリムシに食べられて株が減ってしまった時には、「藍は強いから、うちの畑から茎を切っていくつでも持っていきなさい。切ったところから根が出てくる。それを水耕栽培してから植えると育つ」と手を差し伸べてくださいました。

 

藍畑の作業風景。

 

 私に藍畑を教えることはTさんにとって何のメリットもないのに、どうしてこんなに良くしてくれるのだろう。そう思うほど、たくさんのことをしてくださいました。

 

 それ以来、毎年繰り返し種を繋いだことで、石徹白の気候に合う種になったようです。今では多少の寒さに遭っても、いい苗ができるようになってきました。

 

 

割れた藍甕

 

 ひと通り畑のことがわかってきたタイミングで、Tさんから藍甕をいただくことになりました。一石二斗(いっこくにと)という水が216リットル入る大きな甕で、それが4つ保温のために土の中に埋められていました。もう使われなくなった甕は、ベニヤで蓋をされていました。

 

 私はひとりでは到底掘り起こせないと思い、信頼できる人と一緒にいただきに行きました。その作業は大変で、もう何十年も土に埋まっているものはなかなか出すことができません。四苦八苦して作業している間に、なんと、4つの甕のうち2つにヒビが入ってしまいました。

 Tさんと人生を共にしてきた大切な甕が割れてしまうなんて、と私は絶望的な気持ちになりました。隣で見ていたTさんも信じられない気持ちで眺めていました。

 

 割れてしまっても、それでも4つの甕を掘り起こしました。トラックに乗せて固定をして、石徹白まで運びました。私はこの甕をどうにか修復して使えないかと陶器のことに詳しい人に聞いてまわりました。

 

 

それでも諦められない

 

 そうするうちにTさんから連絡があり「甕が割れては藍染めをすることはできない。この甕は4つでセットだから、割れていない甕もどうしようもないし、僕はもう教えられない。全部割って山に埋めて欲しい」と言われしまったのです。

 

 山に埋めるなんて、こんな大きなものを……!? と戸惑いましたが、Tさんが人生を賭けてやってきた藍染の相棒である甕を割ってしまい、本当に申し訳ないばかりで、Tさんの言う通りにするしかないと思いました。

 

 ただ、これで藍染を諦められない。私はなけなしの貯金をはたいて、自分で藍甕を注文し、藍染を始める準備をしようと決意しました。そしてその後、私の藍甕の下に、Tさんの藍甕を細かく割って敷き詰めることで、Tさんの思いを汲み取り、和解することができました。

 

 当初、50代くらいになったら始めたいなとぼんやり思っていたことが、35歳で現実になりつつありました。

 

藍工房設立の地鎮祭。仲間のSさんとともに。

 

 

藍染の師匠との出会い

 

 ただ、藍染めはとても難しくて、ひとりで始めることは不安でした。そんなとき、たまたま来店したお客さんが「僕、藍染をもう30年もひとりでやっている人を知ってます。今度連れてきますよ」と言ってくださったのです。私はすぐにお願いして、数日後、その方・皆藤(かいとう)俊雄さんが来てくださいました。

 

 皆藤さんは藍畑からすくも作り、藍染までを独学で身につけ、30年のキャリアを重ねてきました。石徹白から1時間ほど福井方面に行った大野市で工房を構えています。

 

皆藤さんに藍染の工程の中の「藍建て」を教わっているところ。

 

人懐こく、柔らかな物腰、好奇心旺盛な方で、私たちが作る服をまじまじと見ながら、「僕も、こんな服作ってみたいな~」なんて言っています。

 私はすぐにこれまでの経緯と、藍染を教えてもらいたい思いを伝えました。しかし藍畑について教えてくれたTさんの存在を気にしてからか、「僕なんかでいいのかな~」と言って躊躇していました。

 

 すると偶然同じ日に、Tさんが石徹白を訪れたのです。柿渋の作り方を教えてくださるということで、いつにしようかと話をしていたところでした。

 私は皆藤さんとTさんが鉢合わせることが、なんだか気まずく感じてあたふたしていましたが、ふたりを紹介しないわけにはいきません。

 

 Tさんに「隣の大野市で藍染をずっとやっていらっしゃるそうなんです」と恐る恐る紹介しました。するとなんだか急にふたりは打ち解けて、畑から藍染をすることがいかに大変か、という苦労話で大盛り上がり。私は隣で聴いていて、勉強になるやら、嬉しいやら……たくさんの感情に大忙しでした。

 

 そして1時間ほどの会話の後、Tさんは私と皆藤さんを前にして「馨生里さん、藍染は皆藤さんに教えてもらうといい」と言われたのです。皆藤さんはニコニコしながら、「おお、いいですよ」と答えました。私は歓喜し、「ありがとうございます!!」とふたりに頭を下げました。

 

 

人との出会いに感謝

 

 全てが奇跡の連続。常に綱渡りのような状況の中で、私は藍畑を学び、藍甕を手に入れ、そして藍染を学ぶことができる環境に立つことができたのです。

 私はこの出会いから、あらゆるご縁を大切にすることをより深く学び、こうしていただいたつながりに心から感謝しました。

 

 そして今、藍染に真剣に取り組もうとしている人が現れたら、私がもし何かできることがあれば、伝えられることは精一杯伝えようという思いを固くしました。

 

 毎年石徹白には、藍染を学びにインターン生が何人も訪れます。その中の数人は、藍染を仕事として取り組もうと独立し始めています。私はTさんや皆藤さんが私にしてくれたように、彼らにもできる限りのことをしようと連絡を取り合っています。

 

 藍染は難しい。だからこそ、人と人を深く繋げることができる。そんなふうに思っています。

 

仲間と藍染について語り合う。

 

 こうして始まった藍染が、今年で8年目になります。藍染は藍甕の中にいる微生物と共に染めるので、藍染の時期が始まると、まるで動物を飼っているような気持ちになります。

 お天気や気温によって左右されますし、何かちょっとしたきっかけでうまく染められないこともあります。いまだにとても難しい問題が起こり、壁に直面することもあります。

 

 ただ、それでもやめられないのは、やはり、先人が培ってきた技術が素晴らしく、染め重ねていくことで現れるさまざまな色彩を持つ藍の色に魅了され続けているからです。

 

 

染めているときも、完成したときも美しい藍色。

 

 この藍染を学ぶことができ、継続できていることにいつも感謝をしながら、染めをする毎日です。

 

 次回は藍染めのプロセスや仕組み、私たちがやっている藍染の具体的方法についてお伝えしたいと思います。

 

 

 


[編集部から]

人とのつながりを大切にし、ご縁がつながって早くに夢が実現した平野さん。

石徹白洋品店では、土を耕し藍を育てて染めた、藍染の洋服を販売しています。藍染は、季節や土地の違い、手のかけ方でその時にしかできない色合いになるそう。

暑さが厳しくなるこれからの季節、爽やかな藍色が役立ちそうです。

 

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